| 第32号 9月26日 |
〜堀之内の歴史 〜ソープランド襲名までの3ヶ月〜 |
| ここ数日涼しいと言うより、寒い日が続いています。夏場は暑苦しくて とても着れなかったチャイナドレスが丁度良い日和です。チャイナに合わせて 髪もアップにして、チャイナミュールを履いて準備は万端なのですが、 残念なのはこのいでたちで控え室にいる時間が多いことです。できれば お客様の前に颯爽と登場したいところですが、困ったことに来店するのは 駅前の閑古鳥(鳩ともいう)たちばかりです。忙しい夏が過ぎて、秋になると 客入りが落ちるのは例年のことですが、今年はちょっと落ちすぎです。 ドルフィンファンのみなさん!真夏に遊びそびれたソープ好きのみなさん! 今が遊び時ですよ!!お好みの時間でお好みの姫の予約が取り放題です。 この機会に是非どうぞ。 さて、本題に入ります。時代は進んで1984年までまいりました。 この年の初秋、トルコ共和国からヌスレット・サンジャクリさん(当時30歳)が 来日しました。サンジャクリさんは、81年から83年まで留学生として 東大地震研究所で地震測定を研究していました。はじめて来日した際、 驚いたのは余りにも日本人がトルコという国について無知な事でした。 それなのに、下宿のあった新宿では「トルコ」のネオンが立ち並ぶ一角が あります。サンジャクリさんは、自分が「トルコ人だ」と言った時の回りの人の にやついた反応がたまらなく屈辱的でしたし、「本場のトルコ風呂はさぞかし 濃厚なサービスがあるのだろう?」と羨ましがられた事もあったそうです。 サンジャクリさんは地震研究の傍ら、「トルコ風呂」の改称を当時の 渡部恒三厚生大臣に直訴したのです。 実際のトルコの風呂は、熱した石の上に体を横たえて汗をかき、 水で身体を洗います。サービスの良い浴場では、同性が垢すりやマッサージを してくれるところもありますが、男女が一緒に入ることはありえません。 国民の99%がイスラム教を崇拝している国ですから、性については日本より ずっとずっと厳格なのです。 まあ、日本のトルコ風呂も、元はといえば中国の垢すりボーイにヒントを 得ただけの健全サービスの浴場だったのです。ま、私は現在のソープの サービスもある意味で健全かと思いますが…。それにしても、トルコ共和国風の お風呂のままだったら何ら問題はなかったはずです。温泉地には豪華な造りの 「ローマ風呂」だってありますが、訴えられたとは聞きません。 創世記のトルコ風呂は、サービス相手が異性であっても、あくまで健全な 健康マッサージをサービスとしていました。当時の日本は公娼制度下に ありましたから、中途半端に色気を売っても意味がなかったのかもしれません。 それが、売春防止法の施行で多くの遊郭がトルコ風呂に転業しました。(以前の項を 参照) それでも、売防法施行直後は、どこの店でも健康マッサージ止まりで、 お色気はなかったのです。 売春防止法の制定には、多くの婦人運動家が貢献したのですが、 公娼の廃止で職を失った遊女の再就職にトルコ風呂を斡旋したなんて 話もあるくらいです。 サンジャクリさんが留学していた80年初頭は、当時のトルコサービスが 爛熟期に達した時期だったのだと思います。堀の内では70年初頭から 始まったマットプレイを中心に過激なサービスがより一層パワーアップ していたようですし、H不毛地帯の吉原でも本番どころかマットまで黙認される ようになりました。ですからサンジャクリさんのショックも伺い知れます。 サンジャクリさんの訴えを多くのマスコミが取り上げた直後の10月1日には、 日本人と結婚したトルコ人女性、小宮山ハミエットさんの記事が朝日新聞の 論壇に掲載されました。 <前文省略> 『トルコ』の名前を、このいかがわしいお風呂の名前に 使わないでいただきたい。日本の皆さんが同じ立場になったらどうするの でしょうか。例えば、日本人のあこがれの国フランスで、いかがわしいことをする 有名なお風呂があって、その名前が『日本(ジャポン)』と呼ばれていたら、 どんな気持ちになりますか。<以下省略> ハミエットさんは普通の主婦なのですから、金銭でHのできる場所は いかがわしいわけで、しかも自国の名称が使われていたのですから ご立腹ももっともです。 時期を同じくしてトルコ共和国大使館文化広報参事官イルハン・オウスさんも 積極的にテレビ出演したりしてトルコ風呂の改称を訴えました。 このような状況下で、いち早く動きを見せたのは横浜の特殊浴場協会でした。 今でこそヘルスに押され、件数も二十数軒と小規模になりましたが、当時は 五十件近い加盟店を有する一大トルコ街でした。 横浜市特殊浴場協会(白川喜一郎会長)は、10月6日に定例役員会を開き、 名称をどうすべきか、を話し合ったのです。横浜ではすでに、トルコの名称は使わず 「メンズクラブ」「湯房」などの看板を掲げている店が多く、会議で異議を訴える店も なくすんなりと改称が決まりました。ただ「ばらばらでは、新しいお客さんが トルコぶろだと分からない」との声が強く、統一名称を決めることになったのです。 しかし他の都市の業界では「協会は任意団体で強制力はない。でもそのうち、 落ち着くはず」と楽観的でした。しかも、上部団体の全日本特殊浴場協会 連合会(石井辰三会長)に加盟しているのが、全国千七百店の半分にも 及ばないことが示すように、足並みがそろうかどうか、は微妙だといわれていまし た。 トルコ風呂の密集地帯では特殊浴場協会を組織し、業界の活性化から御上の 代行で行政指導の手引きまでを行なっていましたが、困ったことに大都市の東京や 大阪は協会に加盟する店舗が半数にも満たない状態でした。 それでも改正風俗営業法(いわゆる新風営法)が施行される年の2月までには、 業界のイメージアップのためにも何らかの手を打たなくては、という状況になりまし た。 そこで大都市東京の面目躍如といったところでしょうか、吉原、新宿をはじめ 加盟店のある地区が分散して一番足並みの揃わなかった東京都特殊浴場協会が 「新名称募集」の記事をスポーツ新聞などに掲載しました。 そして1984年12月19日、赤坂プリンスホテルで仰々しい襲名披露の記者会見 が 行なわれました。ここで「ソープランド」の名称が発表されたのですが、名付け親は お風呂遊びの経験の全くない渋谷区在住の24歳の会社員でした。 この発表にはトルコ大使館のイルハン・オウス文化広報参事官も同席しており 「これでトルコ共和国が有名になった」と満面の笑みでこう語っていました。 後日談なのですが、 翌年1月に渡部恒三厚相にトルコ共和国の アイディン保健社会扶助相から「トルコの汚名をそそいだお礼に本場の トルコ風呂へどうぞ」という招待状が届きました。 トルコへは83年、当時の安倍外相が初めて外相として訪問。議員交流も ほとんどなく、友好議員連盟(金丸信会長)が84年の暮れに発足したばかりでし た。 お風呂が結んだ縁に渡部厚相は、出かけるからには医療援助や保健分野の 協力をまとめたい、と大はりきり。もちろん、熱した石の上に横たわって汗を出し、 マッサージ師がアカをそぎ落とす本場のトルコ風呂を満喫したようです。 こうして1985年を無事に迎えるわけですが、この年の2月に施行された 新風営法はソープ業界にも新たな時代の到来を告げる一大イベントでした。 では次号に続きます。 |
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| 第31号 8月18日 |
〜堀之内の歴史H 〜ポン引きが跋扈(ばっこ)した堀之内〜 |
| 1年で一番忙しいと言われる‘お盆’が無事(?)に過ぎました。さあこれから 風俗業界は一足早く秋風に吹かれるお暇な時期へと突入するのです。そんな ドルフィンの最新情報は、『控え室でのビデオ講習会』です。 わがドルフィンの控え室嬢たちは(数人の女性は個室待機です)二輪車組の みならず、みんな驚くほどに仕事熱心でヤル気満々です。およそ職場の休憩 室と言うものは、上司やお客様の悪口が飛び交い「早く帰りたい」とか「もうお仕事 したくない」という後ろ向きなお話に支配されることが往々にしてあるものです。 私は事務員経験がないので、給湯室での井戸端会議には参加したことがあり ませんが、お茶を汲みながらのOLたちが何を語らっているのかは容易に想像が つきます。 ところがドルフィンの控え室嬢は雰囲気がまるで違います。休日ともなれば 数人ずつのグループで新宿、原宿、横浜などに繰り出し、店用の衣装をあつ らえたり、Hな器具を物色したりしています。それを控え室で披露したり、実演 したり…ああああこれ以上はヤバくて書けませんが『恋人風』という殺し文句で 手を抜きまくるギャルが横行する昨今の風俗業界において、とにかく珍しい店で あることには間違いないのです。 そしてこの度、お小遣いを出し合ってビデオデッキを購入し、ソープ関係の ビデオを見ながら勉強会を開くことになりました。 秋の夜長、お店はヒマで、さぞかし控え室だけが賑わうという日が続くことで しょう。でも、そんな時期にこそしっかりと勉強しなんとか新技のひとつも身に つけたいところです。 みなさま、ひとつ秋の行楽を入浴に切り替えてみませんか?きっとこの夏以上に パワーアップした姫たちと楽しめること請け合いですよ。 さて、前置きのくせに随分と書いてしまいました。ここからが本題です。川崎宿に 始まった<堀之内の歴史>ですが、‘ポン引き’退治のお話を書くところで連載が 止まっておりました。 結果として特殊浴場協会の会長様との現役嬢の私の面談は不成立に終わり、 代役として紹介されたチャオ系列店の社長様もご闘病中で、結局核心に迫る 取材はできませんでした。 そこで、堀之内の昔を知る方々から聞きかじったお話でこの先を進めたいと 思います。 ところで、ポン引きについて書こうとしたのが、順序として「堀之内がトルコ 風呂で大盛況だった」の後の項になるわけですが、何もこの頃(70年代後半)に 急にポン引きが登場したのではありません。 ポン引きの歴史は性風俗の歴史と同じだけ溯る古典的な商法で、江戸時代は 主に、女性と旅館を斡旋する存在だったようです。 岡場所には、引き手茶屋と呼ばれる店があり、入口にいるポン引きがお客と 遊女との間にたって、遊女の斡旋、食事等のサービスを仕切っていたようです。 堀之内はトルコ街として有名になる以前は、売春防止法施行後にも関わらず 青線営業を続けた街です。その頃にもポン引きは存在していましたが、さすがに モロ違法ですからおとなしいもんだったそうです。 1966年に風俗営業法が改正され、堀之内がトルコ風呂の公認地区になった あたりからポン引きが増え始め、70年代後半の全盛期には、殺傷事件もあり お客様や優良店とのトラブルの火種になっていました。 しかし、この時代は風俗に関するメディアはほとんどなく、口コミ情報で「堀之内 では Hができる」と聞いて地方からやってきたお客様に取ってはポン引きも便利な 存在でもあったようです。第一、無知だから引っかかりもするわけで、本当は 総額2万なのに3万取られても、H料金の相場のない時代ですから騙されたことに 気付かないお客様も多かったと言うのです。ネット時代のみなさまには無縁なお話で すが… ちなみに、70年代後半というと堀之内はには「金塀梅」や「シルクハット」などの 高級店がオープンしサービスもバイオレンスなどと呼ばれ、 夜な夜な白熱する肉弾戦が行われていたわけですが、吉原ではHすらままならない 状態でした。それでも川崎流のサービスを取り入れ集客に務めた店もありましたが、 「夕月」が1977年に、「早乙女」が1978年に売春容疑で検挙され、店がトルコ嬢に ‘本番’を強要したりテクニックを指導することはできませんでした。当然H無しの 店も多かったのです。 ですから吉原のポン引きはもっと質が悪く、「本番できるよ」で金を巻き上げる 「やらずボッタくり」が多くの被害者を出していたようです。 それにしても堀之内のポン引きも、良心的な店主にとって、そしてそれを統括する 特殊浴場協会にとっても頭痛の種でした。 そこで協会はポン引き退治に乗り出すわけです。ポン引きはフリーの立場を とってはいても、斡旋するにあたっては必ずどこかの店とグルでなければ商売は 成立しません。80年代に入り(何年かが不明です)ポン引きを雇っている店を あぶり出す作戦を考えました。それでフロの日を制定して、入浴料をディスカウント するサービスを街ぐるみで行ったり、 お客様にハワイ旅行をプレゼントするキャンペーンを張りました。 本当はこの裏事情が知りたかったのですが、今回はお許しください。 かくして堀之内の街からはトルコ風呂のポン引きは一掃され(ホテトルのポン引き は 今でもいますが…)平和で歩きやすい街へと改善されたのです。 そして時代は1984年に進みます。この年、トルコ風呂はその名称をソープラン ドに 変更しイメージを一新しました。 この顛末については次回のお楽しみということで、今日はこの辺で…… |
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| 第30号 7月10日 |
〜ラ・ドルフィン ニ輪倶楽部の舞台裏 続編〜 |
| ラ・ドルフィン ニ輪倶楽部の舞台裏A コラムの更新を怠って早2ヶ月が過ぎてしまいました。 歴史の証人をつかまえるというのがこんなに困難だとも思わずに 書き始めた<堀之内の歴史>ですが、ほんの17〜8年前の話が 書けずに止まっています。申し訳ありません。 私がフリーランスのライターでしたら、当時を知る関係者を 片っ端から取材すれば済むことですが、悲しいかな私は現役嬢です。 ですからドルフィンの看板を背負った状態で他店への取材を 敢行することは道義的に許されません。そうなると、特殊浴場協会の 会長様に取材するしか無く、会長様はご多忙で月に一度しか 堀之内に来ないため、お会いすることがままならないのです。 ですからもうしばらくお待ちくださいね。 さて、二輪車に興味を持つ多くのお客様からメンバーの 紹介依頼を承りましたので、前回の続編としてメンバーの 話を書こうと思います。 私自身の初二輪車のお相手は金髪ギャルの光嬢でした。 光嬢は若さはじける明るい接客がモットーですが、細かな気配りも ばっちりのデキた娘です。私は週末しか出勤できないし、光嬢も1勤1休で、 二人の合致日が少ないため、ペアを組む機会が少ないのが寂しい限りです。 これまでに一番多くペアを組んだのがコスプレ葉月嬢です。 どうやら、やせ形の私と豊満ボディの凸凹コンビが 面白がられているようです。葉月嬢は最近コスプレに凝っていて、 看護婦から喪服まで、毎日多数の衣装を個室に用意しています。 最近、私と組んだ時は、花柄の浴衣を揃いで着ましたが、 浴衣の着たままプレイは圧巻でしたよ。 麻美嬢は、一時期他店に浮気をしていたものの、 もとはと言えばラ・ドルフィン生え抜きです。ソープ歴はさほど 長くないのですが、女性らしい気遣いは先輩の私たちが お手本にしたい程です。最近ダイエット中らしいのですが、 形の良い巨乳だけはしぼまさないで欲しいです。 亜里砂嬢は生粋のドルフィンっ娘で、つまり本物の素人嬢です。 本来の意味での<素人>とは、風俗歴のない娘の最初の1軒目時代を 指すもので、サービスの悪いソープ嬢のことではありません。悪いどころか ドルフィンでは私の先輩にあたる亜里砂嬢のサービス精神は旺盛で、 それに加えて持って生まれたお色気で殿方を悩殺しています。 巨乳嬢が多いドルフィンの中でも超がつくダイナミックボディの持ち主の 奈緒嬢とは残念ながら私はまだ二輪車を組んでいません。 しかし講習会での奈緒嬢はとても前向きで研究熱心ですから ペアを組んだらきっとすごい技を披露してくれそうで今から楽しみです。 ルックス的には亡くなった可愛かずみ似の童顔ですが、 奈緒嬢にはちゃんと足ははえていますのでご心配なく(笑) ここで、お店の告知に先駆けてのお知らせですが、 近々我が二輪車組に新メンバーが加わりますよ。それは、 7月の講習会参加者の飛鳥嬢です。飛鳥嬢はプロ意識も高く とても生真面目です。一緒に講習会を行ってみて、 すぐにでも二輪車組への登録を勧めたのですが、本人が「もうちょっと 自信をつけてから」と言うので今のところ保留なのです。しかしこのコメントも 飛鳥嬢の真面目な性格がそう言わせているだけなので 是非とも夏のうちに二輪車デビューを果たして欲しいです。 さて、春からじわじわと盛り上がってきて、今では予約の 入らない日はないほど人気の二輪車ですが、私たちはこれに奢ることなく 新技や新ネタの練習に励み「一度は二輪車を…」といって ご来店くださったお客様を2度3度とお呼びすることを目標に精進致します。 そして、二輪車に興味のないお客様がいらした時でも 「あれっ?前回よりサービスがアップしたぞ」とお喜びいただけることを 二輪車で切磋琢磨しあうことの副産物にできたら幸いに思います。 それでは、ひと夏の狂宴をドルフィンで…ねっ! |
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| 第29号 4月25日 |
〜ラ・ドルフィン ニ輪倶楽部の舞台裏〜 |
| 桜の開花後にみぞれが降るという、寒い寒い春の幕開けでしたが、 ようやくここ数日は、昼下がりにまどろみを感じるような陽気になりました。 さて、今回のコラムでは堀之内の歴史の続きで、ポン引きのことを書く 予定でしたが、特殊浴場協会の会長様がご多忙でなかなか取材ができず、 徒に時間だけが過ぎてしまいました。 そんな今日この頃ですが、先月からはじめた二輪車について、数多くの お問い合わせメールを頂きましたので、今日はイレギュラーで二輪車誕生の 舞台裏を書いてみたいと思います。 HPで二輪車を告知したのは3月も終わりの頃でしたが、元はといえば、 わがラ・ドルフィンの若手のホープ光嬢提案による講習会に端を発します。 光嬢は童顔に金髪ヘアで、先日など検査のために訪れた性病科でばった り遭遇、最初遠目に見た時点ではちょっと夜遊びが過ぎた女子高生にしか 見えなかったくらいギャルっぽい女性です。愛読書がeggで、未だに 渋谷マルキューあたりにも出没するのですからギャルっぽいのではなくギャルです。 しかし外見とはうらはら、若さと可愛さでお客様受けしていた過日を反省し 二十代半ばにして「プロとして仕事の中身で指名を取れるようになりたい」と、 意欲満々です。三十路オーバーでも雑誌の中では23歳とか偽って素人を 演じている方も珍しくない時代に何とも見上げたプロ意識です。 最初の講習会は、その光嬢と、本年度の新人王の本命と目されている 爆乳娘の葉月嬢との三つ巴で行われました。葉月嬢はサッカー解説者の 川平慈英に似ていると言われて本人は痛く落ち込んでいましたが、 アンルイス似という説もあり、つまりハーフっぽいイイ女なんですね。 しかし葉月嬢も外見に頼った接客を嫌い「技でお客様を唸らせたい!」と 意気込んでの参加です。高級店の経験者で決してお仕事手抜きタイプでは ないのですが、志の高さはあっぱれと言うほかありません。 そんな2人との講習会ですから、日頃マンネリ化した技の反省とサービスの 再構築を掲げてスタートしたはずが、わずか数時間で二輪車プレイのお稽古に 移行してしまい、予想外の成果をあげることができました。 個室内でのレッスン風景の実況はここでは割愛させて頂きますが、 1対1でのお遊びに於いて、大衆店の域は完全に凌駕したことは保証させて頂きます。 二輪車プレイに関しましては、前述のとおり講習会の副産物でしたが、 社長に相談したところ、「面白そうだから、HPで告知して見よう!」ということに 相成りました。しかし、素人ギャルばかりがもてはやされる時代ですから、 店にとってのかなり勇気を強いられる決断だったと思います。案の定、 告知前日に私が掲示板に書いたコメントに対し、時代錯誤だ!との反論が 寄せられ一時は落ち込んだものです。 やはり、きょうびのソープは<若くて綺麗で素人>の三拍子揃った フードルが求められる時代です。しかしながら三拍子のどれにも当てはまらない者は どうすれば良いのでしょう?まかり間違って、綺麗だったとしても若さと素人というのは 日に日に失われて行くものです。 ましてや未曾有の不況の世の中では、たとえ高給取りのソープ嬢とはいえ 2〜3年では家は建ちません。本気で家の一軒でも!と考えたら、軽く5年は お湯に浸かる覚悟が必要です。そう思うと、外見も大切ですが、 それ以上に内面を磨いていかなければ生き残れません。 お陰様で掲示板の反論もそれきりで、応援激励のコメントが相次ぎ、 二輪車ライダーの面々も相次いで試乗にお見えになりました。 そして一週間ほどで、二輪車倶楽部のメンバーは倍の6名にふくらみ、 ライダーのお客様の予約も倍増しました。 さて、二輪車遊びの中身についてですが、1対1との決定的な違いは “デート”では無くて“お遊び”であると言うことです。ご存じの通り ラ・ドルフィンは<若い素人と恋人感覚でHできる>他店とは違い <プロの泡姫によるサービスを味わえる店>がコンセプトです。でも、1対1では 良きに悪しきにデート感覚は否めません。プロ意識を全面に出しすぎると 「情がない」と思われることもありますし、いちゃいちゃ喋っていると、 おサボりと思われることもあります。その点、姫が2人いることで、 お遊びに徹することができますし、1人が支度や片付けなどで動いていても、 もう1人はお客様のそばにいられるので超高密度の接客が可能です。 実際の遊び方のバリエーションは本当に多岐に広がりますから、 文章にはしにくいものです。代表的なパターンは殿に対して姫が、 前後左右上下に配する密着性の高いプレイです。これは、ベッド椅子マット すべてに応用できます。そして別名「講習見物」、つまり姫&姫のレズプレイで、 次の展開で殿が乱入してAV風3Pになります。とにかく3人になっただけで 本当に幅が広がりますし、毎日のように新ネタが生まれています。 まあ、何はともあれ、百聞は一見に如かずと申しますので、興味のある方は 一度チャレンジしてくださいね。そして、どんどん新ネタを提案してください。 では、お遊びを200%楽しみたい方のご来店を心よりお待ちしています。 |
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| 第28号 3月28日 |
堀之内の歴史G 〜堀之内の繁栄とありがたい日本のザル法〜 |
| 以前から、同僚の光ちゃんに講習会のリクエストを頂いていて、このた び葉月ちゃんを加えた3人で自主講習会を行いました。私としては、まだ まだ人様に教える域には達していませんが、同僚の指名獲得ひいてはお 店の繁盛に不祥私が役に立つのならどんどん活用していただこうと思い ます。だいたい私自身、ソープデビューに際しては超売れっ子先輩嬢直伝 の秘技や心遣いを学ばせて頂いていますから、良いモノは後世に残すこ とで堀之内の伝統を守っていければ微力ながら貢献したいものです。 そんな流れで二輪車遊びの復活なども提案させていただいているので す。ですがこれは1対1にちょっと飽きた方の贅沢プレイですから、「倍 額なんて払えない」とお嘆きにならないで、まずは講習会を経てサービス の幅が広がった私たちと基本スタイルでお遊びしましょうね。 では、トルコ時代のお話の続きです。 日本の法律って、カタイように見えて実は面白いし、規制を受ける側に とっても案外親切に作られているのです。 明治初期、娼妓解放令が発令され、娼妓(堀之内は宿場ですから女郎で すが)は田舎に帰しなさいということになりました。平たく考えればこの 時点で遊女屋は潰れてしまうのですが、日本の法律はとても親切設計で すから、但し書きがこのあとに続きます。但し、自由意志の者がお上の鑑 札を受けて、貸座敷業の許可を受けた店でなら働いても良いとのことで す。つまり、公娼制を廃止するどころか、この時に川崎遊郭は成立し、軒数 も倍以上に増えとても繁盛しました。なにしろ、貸座敷業の届け出をした 旅館は74軒のうち、41軒は女郎を置かない平旅籠だったのですから。 売春防止法後、それまでの特殊飲食店に取って変わるようにトルコ風 呂が増え、トルコ嬢による売春行為が問題になってきた1966(昭和4 1) 年、風俗営業法が改正されました。ところが、トルコ風呂そのものを取 り締まるのではなくて、開業場所を制限したにとどまりました。法案提出 に熱心だった婦人団体は「いけない存在」としてクローズアップされると 思っていたトルコ風呂が、規制された地域内で堂々と営業しているのを 見てさぞかしホゾをかんだに違いありません。 赤線にしても、「いけないことだけど、場所を制限すれば良い」という日 本特有の“必要悪”という考え方の産物でした。 ちなみに、トルコ風呂内でのいかがわしい行為を取り締まれという内 容の風営法改正案は、1980年くらいまでは何度も提出されていたの です。しかしいずれも審議未了でウヤムヤになったようです。最近の国会 では聞いたことがありません。 それにしても、一応、戦後早々から叫ばれてきた売春防止法がやっと施 行されたのですから、吉原あたりの赤線では本当に売春行為は無くなっ たのだそうです。そして指定地域ということで、トルコ風呂が増えてきて も、警察の取締りも厳しく本番すらできないで70年代を迎えました。 吉原が本番を黙認されだしたのは、一説には都知事がMさんからSさ んに変わってからとも言われていますが、本人に確認が取れないのであ くまでも説としておきます。 とにかく、今となっては、「ド健全の指圧マッサージトルコ」の吉原でさ え、法律の網の目をくぐっている状態なのですから、日本の法律はまこと に美味しい画に描いた餅です。まー、建前上は口が裂けても「売春は良い こと」とは言えない議員さんたちも、本音は「素人と間違いを犯すよりプ ロが必要」ということなのでしょうねえ。婦人票も大事ですものね。所詮、 日本にヨーロッパのような本当の意味でのリベラルさを望むのは無理な のです。(ヨーロッパの娼婦の項参照されたし) こう考えてみると、堀之内って街はさらに面白い場所です。なにしろ、 明治政府の命令で、南町に遊郭が統合されても、堀之内の置屋は堂々と営 業していたようですし、戦後の区分も非公認区域の青線でありながら赤 線の南町より繁盛していたのです。そして、売春防止法が施行されても堀 之内の特殊飲食店(特飲・別名 小料理屋 さらに別名 ちょんの間)は リッパに生き残りました。 これは、暴力団対策法により、ヤクザの組事務所が○○商事とか△△興 業になって、組長が社長で代貸が専務と名を変えて生き残りをはかった 時に、繁華街に堂々と組の金看板を掲げているようなものです。一見する と、ものすごいバカに見えますが、お上の“必要悪”論を逆手に取った賢 い経営者の集まりだったのかもしれません。 何しろ、売防法施行後も特飲店はH付きでお泊まりの出きるミニ旅館 として、東京の客を集めて繁盛していたのですから。 ですから、川崎に最初にトルコ風呂ができたのは売防法施行から2年 も経った1960(昭和35)年と遅かったのです。そして、堀之内第1号店 の「京浜トルコ」は、開店当初から本番サービスが別料金で設定されてい たようです。 1966(昭和41)年の風営法改正で、トルコ風呂の地域規制で堀之内と 南町が指定されて以後は、正業として営業できるトルコに転業する特殊 飲食店が増えてきました。 しかし、本当に堀之内にトルコ風呂が激増したのは“泡踊り”で日本中 の注目をあびた1970年以降でした。最盛期に堀之内には70軒(南町 は23軒)のソープランドがひしめき合っていたそうです。 ちなみにこの頃の吉原のトルコ風呂は80数件で、数の上でも(2町を あわせて)川崎の方が上回っていたのです。80年代に入り、たぶん本番 もマットも黙認されるようになって、吉原のトルコ風呂は瞬く間に10 0軒を越えたようですが… さて、堀之内は“泡踊り”に端を発する女性主導型の真新しいお遊びは、 全国的に支持され、“バイオレンスサービスの堀之内”というありがたい ニックネームまで頂きました。各店の各おねえさまがサービスを競い合 い、新しい技が毎晩のように生まれていたというのも決して大袈裟では なかったのだと思います。おフェラ技を極めるために、総入れ歯にしたト ルコ嬢が何人もいたというのですから実に驚きです。 しかし、繁栄の陰には必ずそこに巣くう悪い虫が発生します。ポン引き の登場です。それでは次回はポン引きについて書いてみたいと思います。 |
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| 第27号 3月16日 |
堀之内の歴史F 〜堀之内バイオレンスサービス〜 |
| のっけから情けないお話ですが、ラ・ドルフィンの閑古鳥は相変わらず 真っ昼間から店に巣くっています。暇な時間、私は控え室でお昼寝してま す。「は〜るよ来い!きゃ〜くよ来い!」と歌いたくても寝過ぎて声も出ま せん(;。;) 心あるお客様、こんな私を救ってくださいね(^o^) さて、本題に入ります。以前、村上龍の「69」を読みましたが、団塊の 方々が青春を過ごされた1969年は、政治にもそして風俗にも改革の 嵐が吹き荒れた年だったようです。 この年にオープンしたトルコ風呂「川崎城」の繁盛ぶりはEで書きまし たが、この店が破格の高級店であり、ここの女性たちとは浴室で泡にまみ れてHが楽しめるという話が、口コミだけで日本中に広がったと言うこ とが私には驚きです。何しろ、開店から数日で、予約無しでは入店できな い人気店になったと言いますから。 ネットでチャオを発見したことがきっかけで初来店、というお客様の 多くが、「堀之内の情報が少ないから、今まで来なかった」と言います。し かし、“泡踊り”付きの高級トルコで一世を風靡して、堀之内が日本一の トルコ街として隆盛を極めていたころ、風俗本はありませんでした。たぶ ん、その10年とちょっと前までは公認の遊郭があった時代ですから、職 場の上司や友人同士で、比較的気軽にHな話ができる環境があったのか もしれません。しかも、上下の付き合いが重んじられていた分、「先輩が後 輩をトルコで男にした」なんて話は良くあることで、職場の人間関係が希 薄になった現代では受け継がれなくなった古き良き風習のようです。 性風俗が大衆的なカルチャーとして、テレビで取り上げられたり、アイ ドルが誕生したりして、今どきソープランドの違法性を騒ぎ立てる人も 影を潜めました。ですから、マスコミの影響って大きいし、特に風俗本が コンビニに置かれている‘市民性’はある種画期的なことです。そしてネ ット上でのアダルト情報の氾濫で、ソープを身近に感じた人が増えたの はとても良いことだと思います。でも、友人や先輩後輩の関係性を希釈し てしまうのだとするとやはり罪な側面もあるのですねー。 さて、マスコミの功罪論でちょっと脱線しましたが、“泡踊り”の名付 け親は店では無くてマスコミです。「川崎城」の成功で堀之内では、女性主 導の浴室プレイが大流行し、一般週刊誌も取材に来ました。 そして、“泡踊り”の名の発祥となった店が「王宮」「王朝」「王将」の今の チャオ3軒なのです。(今のラ・ドルフィン、乱、禅です!)この3軒では、 エアーマットにお客様を俯せにするところからサービスをはじめる両面 洗いを開発し、女性のボディだけでなく、指も、陰部の毛も、乳房もすべて 性具として活用したのです。それまでの、あまり動きのないマット上での Hと違い、まるで踊っているようなアクションを取り入れて、合体をせが む客をじらしました。そして、陰毛を泡立てて‘の’の字を書く技は、ヘア ブラシ洗いと名付けられました。 ここの店のサービスはそれまでのちょっとした前技をはるかに越え、 もはや我慢プレイといった状態で、マスコミはこれを‘地獄のえんま攻 め’と呼んだそうです。そしてこれらのサービスは“王流”と言われて全 国へ波及していきました。 全国と言っても、70年代初頭のトルコ業界は、まだまだ大都市(東 京・大阪・京都など)では警察の締め付けが厳しく、本番にすら至れない 店が多かったそうです。かの吉原も、街を仕切っていた数少ない旧赤線業 者たちの自主規制で「目立たないように細々と営業する」ことで生き残り を模索していたようです。現に、お上に背いて、川崎流のサービスを取り 入れた「夕月」が1977年に、「早乙女」が1978年に売春容疑で検挙 されたこともあり、店がトルコ嬢に‘本番’を強要したりテクニックを指 導することはタブーとされていたのです。 よく、吉原は部屋が狭いといいますが、浴室はただ身体を洗うだけの場 だった上、ベッドは指圧マッサージをする台だったのですから、広くする 必要はなかったのです。吉原の経営が、新興トルコ業者に成り代わり、旧 赤線業者の呪縛から解けた80年以降は、それなりのサービスも行われ たようですが、その後の風営法改正で部屋の改築が難しくなり、高級化が はかられた割りには部屋は相変わらずお粗末なまま今に至るのです。 吉原の苦悩を尻目に、川崎の高級化は70年代半ばに日本中を襲った オイルショックにも揺るがず躍進を続けました。76年には、高級店の代 名詞とも言われる「金瓶梅」や「アラビアンナイト」がオープンし、さらな るVIP客を取り込むことで不景気を打開していったのです。 堀之内のサービスを積極的に取り入れたのは、滋賀県の雄琴や千葉 県の栄町でした。栄町の「石庭」では、王流マットプレイに更にアレンジを 加え、石庭流なる技を編み出しました。潜望鏡や椅子プレイは栄町が発 祥地とも言われています。 雄琴の場合は取り入れたというより、移動したという方が適切です。当 初のスタッフ(男女ともに)は川崎からの移住者が大多数で、「川崎村」と も呼ばれたそうです。これは、雄琴のトルコ第一号店「花影」の社長が、堀 之内で味わった“泡踊り”に感激して、ひなびた温泉街に突如トルコ風呂 を建設したのがこの街の起源だからです。最初のトルコ嬢は全員“泡踊 り”の達者な川崎仕込みのベテランで、関西では初のHなサービストルコの 出現に、新天地を求めて集まったのだそうです。 一方、高級店ラッシュの堀之内では、78年には入浴料1万円以上の店 が15軒にもなり、全店舗数も70軒を数えました。堀之内で生まれた 数々の技が各地に広がり、広がった先で新たな工夫がされ、それをまたフ ィードバックするような形で堀之内は日本のトルコ業界をリードしてき たのです。 この頃、一番高い「金瓶梅」が総額4万円だったにも関わらず、椅子ボ ディ洗い、潜望鏡〜逆潜望鏡の浴槽プレイ、マットプレイにベッドマナー というフルコースはバイオレンスサービスと呼ばれ、連日連夜大盛況だった のです。 それでは次回は70年代の堀之内をもう少し掘り下げてみたいと思い ます。お楽しみに。 |
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| 第26号 2月27日 |
堀之内の歴史E 〜泡踊りは世紀の大発明〜 |
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3月が近づき、暖かさと寒さが一進一退といった今日この頃ですが、私 堀之内が世界に誇ると言われている世紀の大発明“泡踊り”の起源に |
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| 第25号 2月15日 |
堀之内の歴史D 〜トルコ風呂の誕生〜 |
| 相変わらず寒い日が続きますね。きょうもオフィスの窓辺に風花がチラ ホラ舞っていました。お店の方も静かな日が続いています。週末出勤して も、控え室のこたつでお昼寝することが多くなり、帰宅後は時差ボケに悩 まされます。 さて、堀之内の歴史の方はいよいよトルコ風呂の時代までやってきまし た。トルコの名称は私でも知っていますが、リサーチを始めると意外に苦 戦を強いられました。当時は風俗本もなく、かといって、図書館で入手可 能な歴史書にはさすがにトルコの話は出てきませんから(笑) それでも面白いことが色々わかってきました。ではどうぞ! 堀之内の歴史D 〜トルコ風呂の誕生〜 1958(昭和33)年4月、売春防止法が正式に施行され、16世紀から約 350年続いてきた日本の公娼制度に終止符が打たれました。 現在のソープランド街が、旧遊郭地帯に合致しているところが多いこ とから、赤線廃業イコールトルコ風呂への転業だと考えられがちですが、 それはいささか早計です。何しろ、昭和33年の時点で、すでに全国に1 00軒のトルコ風呂があり、都内にも33軒が盛業中でしたが、この当時 は赤線地域とは一線を画していました。初期のトルコ風呂は、個室でのマ ッサージサービスが売りとはいえ、基本的には健全サービスの旗印のも とに若くて健康的な女性を集めていました。中には多少Hなサービスが 加わるところもあったようですが、精々女性が服を着たままのスペシャ ル(手こき)程度でした。<のちに‘お’を付けてオスペと呼ばれた> 旧赤線地帯での転業は、同年7月に吉原の特殊飲食店(つまりちょんの 間です)「東山」が「トルコ吉原」としてオープンしたのが最初です。この 店は当初入浴料300円のみのスペシャルも禁止の健全営業だったそう です。「トルコ吉原」のオープン以降、トルコ風呂は雨後の竹の子のように 増え続け、翌1959(昭和34)年には東京都内のトルコ風呂67軒の半分 が吉原にできました。吉原の場合、前述の東山のように特飲店からの転業 もありましたが、オスペでさえ厳しく取締りの対象にする警視庁のお膝 元だったため、健全路線の店の多くは新規参入の業者でした。 一方川崎では、旧赤線の南町の一部が旅館使用のもぐり売春で食いつ ないでいたのに対して、堀之内は青線時代とあまり変わらぬ状態でちょ んの間遊びができていたそうです。生き延びたちょんの間は現在にも続 くわけですが…これは神奈川県警の懐の深さなのでしょうか? 川崎に最初にトルコ風呂ができたのは1960(昭和35)年と遅く、しば らくはこの「京浜トルコ」一軒しかなかったのです。それが、1966(昭和4 1) 年の風営法改正で、トルコ風呂の地域規制で堀之内と南町が指定され て以来急激な増加を見せたのです。これにより、江戸後期から事実上の花 街であったにも関わらず、明治の一時期を除いて、お上の公認を取り付け たことのなかった堀之内が初めて歴史の表舞台に登場したのです。 さて、またもや東京の話で、時も1964(昭和39)年に戻ります。この年 の秋に開催の東京オリンピック景気を当て込んだ出店ラッシュで、都内 のトルコ風呂は200軒近くにまでふくらみました。ここまで増えると、 競争も激しくなり、もはやオスペは常識といった感じで、ダブスペ(Wス ペシャル・女性が下着を脱いで69スタイルでサービスする)や素股も登 場し、なかには本番と称する売春行為を黙認する店もあったようです。し かし、警視庁はオリンピックに訪れる外国人に破廉恥な行為はさせまい と取締りを一層強化しました。都内のトルコは件数の伸びかたに反比例 して健全化がはかられたのです。結局、オリンピック景気の美味しいとこ ろを川崎勢が頂いたのは言うまでもありません。 1966(昭和41)年、それまで公衆浴場と同じカテゴリーで、保健所のみ が管轄としていて出店に対しての規制がなかったトルコ風呂に、風俗営 業等取締法が適用されることになりました。これは新規出店の地域を制 限する厳しいものですが、つまりは赤線と同じ理屈で、許可地域が設けら れたということでもあります。 こうして日の目を見た堀之内は、おとなりの旧赤線の南町がヤクザま がいの黒線売春で荒んでいくのを後目に、日本一のトルコ街に大変貌を 遂げるのです。 1967(昭和42)年、東京は大森海岸に、当時としては破格の入浴料30 00円という豪華トルコ「歌麿」がオープンしました。厳選された美人ト ルコ嬢によるきめ細やかなサービスで評判になり、指圧マッサージ以外 に身体を接してのオイルマッサージも導入されました。しかし、本番はも ちろんのこと、Hなサービスは一切ありませんでした。 この頃、首都圏でも東京以外のトルコ地区(堀之内、南町、千葉栄町な ど)では、4〜5000円の別料金(サービス料)での本番が行われていま したが、名実ともに‘高級トルコ’に先鞭を付けたのは堀之内でした。 1969(昭和44)年に入浴料5000円の「川崎城」が開店し、業界の度 肝を抜いたのです。その上、1万円という破格のサービス料だったにも関 わらず、連日押すな押すなの大盛況でした。この店の繁盛の秘密こそ、堀 之内が世界に誇る大発明の“泡踊り”をトルコ嬢全員に義務づけたこと にありました。 さて、それでは次回は“泡踊り”の誕生について検証してみたいと思い ます。なんと、この“泡踊り”の誕生にわがチャオグループが多大な貢献 をしていることが判明したのです。ではお楽しみに!! |
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| 第24号 2月6日 |
堀之内の歴史C 〜青線時代〜 |
| 2月になり、私がドルフィンに入店してから3度目の冬越えになりま す。今年は本当に寒い日が続きます。なのに、当店に住み着いた閑古鳥た ちは寒さにも動じず冬眠もせず、元気に飛び回っています。つまり‘暇’。 こういうムードの時期ですから、控え室にいても一層寒さが身にしみ ます。陰暦で2月を如月といいますが、もともとの漢字は‘衣更着’です から寒くて重ね着をするという意味でしょう。控え室での私は厚手のカ ーデガンを羽織り、遠赤外線使用の靴下で完全防備でおコタの中です。 ねっ、ねっ、お客様、PCの画面ばかり見ていないでたまには一緒に熱 いお風呂に入って良い汗流しましょうよ! 如月族は嫌だよー(;。;) さて、今回は戦後の堀之内について書いてみたいと思います。 堀之内の歴史C 〜青線時代〜 まずはおさらいですが、「遊郭」とは「遊女が集団的に居住、売春業が 公認されていた特定の地域。公娼街。色町。遊里。くるわ。」(『日本語大辞 典』講談社)のことです。公娼が制度化されたのは江戸時代初期。大都市 各所に散在していた遊女屋を京都島原、大坂新町、江戸吉原に統合したの がはじまりといわれ、三都以外長崎、奈良など全国の都市にも幕府によっ て公認された遊郭ができました。明治以降も内務省の許可を得て営業が 続き、川崎の場合、現在の南町が公認の川崎遊郭となり、堀之内は非公認 の私娼街でしたが、京浜工業地帯の発展とともに2つの街ともに関東屈 指の色町として大いに賑わいました。 戦局が悪化した1944(昭和19)年、遊郭は他の接客業とともに営業が全 面禁止となり、多くの遊女が従軍慰安婦として戦場にも駆り出されまし た。このコラムでは反日帝論をブチ上げるつもりはありませんので、戦争 の悲惨さ云々は割愛しますが、敗戦により虚構の日本帝国は壊滅し、あら ゆる面で新しい動きが始まったのです。 1945(昭和20)年、日本の敗戦日である8月15日から一週間足らず の8月21日に、驚くべきことに、“公娼街の早急なる整備”が閣議決定 されたのです。これはGHQ対策として、「良家の婦女子をアメリカ兵か ら守る」という大義名分だったようですが… こうして旧遊郭エリアには急ごしらえのバラックが建ち並び、かつて の遊女の他に、戦災孤児や職にあぶれた女性が続々と集まったのです。し かし中には、「女中募集」とか「家政婦募集」といった嘘の求人で集められ た女性も多くいたようです。 川崎遊郭と堀之内もこうした流れの中で再建されました。吉原や新宿 が空襲で消失し、戦後の遊郭には新規の業者がほとんどだったのに対し て、川崎の場合、運良く戦災を逃れた店も多く、再建も早かったのです。 堀之内の場合、政府のお墨付きのない無許可地区だったのですが、ウヤ ムヤのまま妓楼が再建されたのです。かつて軍が中に入って取り締まり をおろそかにしたこともあり、またお隣の横浜市街地が広範囲にわたっ て米軍に接収され、溢れんばかりの米兵対策に遊女の存在は欠かせない ものだったようです。 日本政府は、米兵対策を第一の目的に遊郭を再建しましたが、当のGH Qは、不当な人身売買を防止するために、1946(昭和21)年1月に、公娼 制廃止の命令を出しました。日本政府は、廃止命令への対抗策として「社 会上やむを得ぬ悪として生ずるこの種の行為については特殊飲食店を指 定して警察の特別の取り締まりに付かせ、かつ同店は風致上支障のない 地域に限定して集団的に認めるよう措置」させることにしました。 この結果、旧公私娼地区とほぼ同じ区域に特飲店街が形成されること となり、これらの地区を「赤線」と呼ぶようになります。結局、必要悪と されながらも妓楼は存続したのです。 「赤線」とは、警察署の防犯課が地図上、特殊飲食店のエリアをわかりや すく赤い線で囲ったことに由来します。赤の範囲が「娼婦の自由意思」で の売春を認めた「特殊飲食店街」で「赤線地帯」、青が飲食店の営業許可 だけでもぐり売春を行う「青線地帯」と色分けされました。 川崎では、明治政府のお墨付きを得た南町が「赤線」で、堀之内は「青線」 と規定されました。しかし、戦後復興の流れの中で、川崎市最大の闇市が 市役所前の疎開跡地に形成されていたこともあり、人の流れは堀之内方 面に向き、もぐり売春ながら活況を呈したとされています。 戦後の堀之内は、全盛期には100軒近い飲食店(小料理屋)と旧貸座 敷(旅館形式)があったようですが、女性の質のわりに値段が安かったの も人気の理由だったようです。堀之内の女給(戦後は遊女でなくこう呼ば れた)の旅館での泊まりのお遊び代は800円〜1000円で、ちょんの 間でのショートタイム(20分程度)のお遊び代は300円くらいでした。おとな りの南町がもう少し高く、泊まると1500円くらいになり、吉原はさらに高く 3000円もかかる高級店があったそうです。 我が国に、正式に売春防止法が成立したのは、形式的全廃から10年後 の1956(昭和31)年5月でしたが、これが法案として国会に提出された のは、1947(昭和22)年の第二回国会が最初でした。以来、数度に及ぶ審 議未了ということで難を逃れていましたが、赤線業者の間では、いずれ全 廃は免れないだろうという空気が漂っていたようです。 ちなみに、当初、警察内部の識別から色分けされた呼び方が、売防法施 行後は地下に潜った売春の形体を指す一種のマスコミ新語となりました。 女性を普通のアパートなどに住まわせて売春させ、業者は離れたところ で監視し金を絞り取るのが「白線」(パイセン)で、一般の新聞の見出しに も使われたくらい普及しました。美人局(つつもたせ)や、やらずのぶった くりが行われるような暴力売春店が「黒線」、電話の呼び出しで売春する コールガールが「黄線」(おうせん)です。 さて、国会での審議が曖昧に終わる中で、各自治体の対応の方が早く、 1951(昭和26)年に、埼玉、栃木の両県、そして横須賀、神戸、岩国、千歳、 小倉の各市で売春取締条例が制定されました。この年の4月、日本で最初 のトルコ風呂が銀座に誕生しました。名称を「東京温泉」といい、短パン姿 の制服を着た美形のマッサージ嬢による個室でのサービスを売りにオー プンしたこの店は、600円という破格の料金にも関わらず、連日満員の 大盛況ぶりでした。「東京温泉」の経営者は中国からの引揚者で、中国の垢 すりボーイを若い女性に変えるという発想で始めた店だっただけに、H なサービスは一切ありませんでした。お客様の身体を洗うも、股間部分に 関しては石鹸を手渡しし、マッサージを行う際は専用のパンツをはかせ ると行った念の入れようで、健全さをウリにしていたのです。 この後、全国にトルコ風呂が続々と開店します。売防法の成立を見越し た先見の明のある赤線業者の転業もありましたが、新しい事業として参 入した業者も多く、1958(昭和33)年の売防法施行の年には全国で10 0軒を数えました。 それでは売防法施行以後の堀之内のトルコ風呂についてはまた次回に 書いていきます。 ********臨時ニュース******** 一年で一番暇だと言われる2月にご来店のお客様!! 14日のバレンタインデーにちなんで、 ささやかなプレゼントを用意しました。 2月末までにご指名くださった福の神さまに差し上げます。 どうかお楽しみに(^o^) |
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| 第23号 1月30日 |
堀之内の歴史B 〜川崎遊郭の成立〜 |
| 大変ご無沙汰していました。1月は本業の方が超多忙で、元旦の言い訳 コラム以来1ヶ月ぶりの更新です。 それにしても、お店における1月は、私にとって、とても悲惨な1ヶ月でした。 普通でしたら年間でも有数の書き入れ時で、忙しさに悲鳴があがる1月です が、多少なりとも込み合ったのは正月期間中だけで、中旬以降は雪などもあ り店には閑古鳥が巣を造り、予約が入るのは早い時間だけで、ゴールデンタ イム以降は控え室での長時間休憩を強いられる有様でした。 挙げ句の果てに、あわや専用部屋から撤収の可能性もあったのですが 常連様の貸し切りで何とか切り抜けるという情けない1ヶ月だったのです。 これからの季節こそ、風俗業界では‘暇本番’と言われます。情けない 続きでのお願いですが、みなさま、暖かいお風呂に遊びに来てくださいね。 さて、本題に入ります。このシリーズは「川崎宿」でスタートしましたが、 時代が明治に突入しますので、単に『堀之内の歴史』に改めます。 堀之内の歴史B 〜川崎遊郭の成立〜 1872(明治5)年に横浜で起きたマリア・ルーズ事件がきっかけで、明治政府 が娼妓解放令を発布したことは以前別の項でも書きました。同時に遊女屋は 貸座敷渡世を願い出れば許可されることになり、遊女も自由意志であれば鑑 札を渡すことになりました。つまり、明治政府は公娼を禁止するのではなく、公 認することになったのです。 娼妓解放令直後の記録によると、川崎宿の飯盛旅籠33件と、平旅籠41件が 遊女貸座敷渡世を願い出たとあります。こうして川崎遊郭は正式に成立しました。 旧旅籠の多くは堀之内を含む本町界隈でしたが、鶴見市場までをエリアとする 川崎宿全体に妓楼が分布していたことから、まもなく風紀上好ましくないという世 論がおこります。このため、1903(明治36)年に神奈川県から移転命令が出て、現 在の南町が川崎遊郭になったのです。 川崎遊郭の入口(現在の小登呂橋付近とされている)には、“川崎遊郭大門口”と 記された大看板が掲げられ、およそ100軒の遊女屋を抱える関東有数の遊郭に なりました。折しも工業地として変貌しつつあった川崎の街と同様に大変な賑わい だったようです。 1918(大正7)年の「横浜貿易新報」(ローカル新聞)に連載された『工業に栄ゆる 川崎町』は“大門あたりをブラついて見るならば、暮れ近く7時ころから来る遊客の 大部分は、どてらに着流しや印半纏姿で三々五々と打ち連れては巫山戯(ふざけ) ながら遊郭に流れ込む”“遊客に比べると、娼妓の数が不足気味で、宵の口10時 を過ぎるとすべての部屋がふさがっていた”と川崎遊郭の繁盛ぶりを描いています。 川崎遊郭の成立後、宿場時代に一番賑わっていた本町・堀之内界隈は一体どう なっていたのでしょう。多くの妓楼が南町へ移転しましたが、空き家を借り受けた者が 無許可で営業を続けたところも多く、無許可故に免許料や税金も払わないことから “遊女と安く遊べる街”として労働者や兵士に愛用されていたようです。 大正末期から昭和にかけて、中央のモダニズムの余波もあり、川崎にもカフェーや ダンスホールが流行し始めます。堀之内の通称“ちょんちょん格子”(いまのちょんの 間)の一部もカフェーやバーに生まれ変わり、それまで私娼窟の遊女として辛酸を舐 めていた女性たちは“女給”というモガに成り変わったのです。 昭和初期は、川崎の遊郭が最も賑わった時代で、軍需景気に沸く川崎は人口も急 増し、娼妓の数も1000に届く勢いでしたが、1944(昭和19)年の「決戦非常措置要網」 で、貸座敷のみならず芸妓置屋、カフェー、バーなど接客業は一斉に休業に追い込まれ ました。職を失った女たちは、挺身隊に送り込まれ、その一部は従軍慰安婦として戦争 の犠牲になったのです。 そして、貸座敷は軍需工業の工員宿舎になったり、余った寝具は飯場に提供させられ たのです。この時、無許可営業を行っていた堀之内の貸座敷は、無許可であることから、 寝具の提供を拒む業者がいたのですが、軍は無許可営業の取り締まりをしないことと 引き替えに寝具を要求したと言われています。つまり、警察が許可を与えなかった堀之 内の妓楼は軍によって承認された格好になり、戦後の遊郭の復活にも影響を与えるこ とになるのです。 それでは、戦後の遊郭、いわゆる赤線・青線時代については次回のお楽しみということで・・・・ |
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| 第22号 1月1日 |
2000年を振り返って 〜コラムの反省と今後の展開について〜 |
| 新年あけましておめでとうございます。 本来でしたら、新しい原稿には川崎宿シリーズのBが書かれているはずだったのですが、 12月は予想以上に多忙を極めてしまい、リサーチがはかどりません。道路は渋滞しているし、 役所も銀行も行列を余儀なくされて、図書館へ行く時間も作れずじまい。 その上、川崎史を習っている元小学校長の郷土史研究家のおじいちゃまもお忙しくて… と、出だしから言い訳けで申し訳ないのですが、川崎宿のお話はちょっと延期します。 さて、2000年もラ・ドルフィンは多くのお客様にご支持を頂き、 上昇気流に乗ったまま新年を迎えられることを心から幸いに思います。 アルバイト勤務の私もすっかり古株のひとりに数えられるようになってしまい、 お店の看板を背負っていく責任をひしひしと感じます。 私のコラムも書き始めて半年が過ぎ、多くの方に見ていただき大変嬉しく思います。 お客様の多くは、風俗雑誌を見てもモノクロページの記事は読まないと言っていましたから、 HPでも、写真は見てもコラムを読む人は少ないだろうと思っていました。 ところが、コラムがきっかけでご来店くださる方がいたり、 感想や注文のメールを頂いたりと予想外の反響にただただ驚いている今日この頃です。 こんなことなら、もっとちゃんと書けば良かったと後悔してももう間に合いません。 誤字脱字は多いし、句読点が無茶苦茶だったりで、読み返してはひとりで赤面しています(;。;) コラムの内容についてのリクエストですが、やはり一番多いのは、Hの数値に関するクエスチョンです。 ××の大きさ、持続時間、達成回数など、どうも男性のみなさんは数学的なんですね。 このへんのことはいずれ書くとして、次に多いのが、有名人ネタです。 これは、 私が以前『S』という、芸能人やスポーツ選手の来店が多かった店に在籍していたからのようですが、 こういうお話はネット上では書きません。もちろん有名人に限ったことではありませんが、 特定のお客様の話を公表するのは水商売の仁義に反することだと思うからです。 最近では水商売道というべき独特の道徳観念も希薄になり、芸者が総理大臣の過去をばらしたり、 クラブのホステスが有名人客との写真を雑誌に売り込んだり、女子大生がタレントと寝たことを ネタ(笑)にAVビデオに進出したりと不条理がまかり通る世の中です。 でも、私たちが金銭的な報酬を得る理由は、<Hの代償>というだけの短絡的なことではありません。 お客様のプライバシーに対する守秘義務は、法的根拠のある弁護士以上に 強固なものでなくてはいけないはずです。もちろん、お客様のことを聞く相手の目的が 犯罪捜査だったりすれば例外もあるかもしれませんが。 前述のU元総理のご乱心ぶりは、決して誉められる行為では無いですが、 自分のお客様をマスコミに売り飛ばし、花街の気風に泥を塗ったNさんは非常識過ぎます。 金銭の支払いがあるということは、そこには必ず何パーセントかの安心料も含まれていると思うのです。 ですから、お店の個室内での内緒話ならいざ知らず、お客様のプライバシーを暴くようなお話は ネット上では公表できません。どうかご理解くださいね。 さて、今後の展開ですが、調べ始めた堀之内の歴史を完結させるのが今の課題です。 江戸から明治、大正、昭和と続いてきた公娼制度が廃止になり、トルコ風呂に姿を変えてからの 街の変貌ぶりや、マットなどの秘技開発の裏話を取材したいと思っています。 それでは、相変わらずの2足の草鞋で出勤数の少ない私ですが、お店にいるときは プロとしての自覚を持って接客に精進しますのでどうか21世紀もよろしくお願いします。 |